金沢北条氏の称名寺へ 裏山散策(2016.06.14)
2016年 06月 16日
こちら、その(金沢山、稲荷山、日向山への)入口。
宝篋印塔の左右には大きな五輪塔が並んでいて、一門の墓と考えられているそうです。
こちらは向かって左側。
途中、よく見かけた植物、紫色の小さな花がさりげなくきれいでした。
散策路のアップダウンは、結構あります。あっという間に汗だくに。やれやれ。
稲荷山休憩所からの眺望は、そう開けてなく(見えるのは、西柴2丁目、3丁目方面の家並)、休憩したくなるような場所じゃありませんでした。(>_<)
その先の八角堂広場まで、かれこれ15分ほど。
はい、こちらは、いい眺め!
景色は楽しめますが、周辺が草ボウボウで、ヤブ蚊も多そうだし、あまりゆっくりしたくない気分。。。(笑)
ちょっと色あせてしょぼくなった八角堂(内部は空)がありました。昭和10年(1935)、北条実時公の660年忌を記念して、大橋新太郎氏が建立したそうです。(建立当時は、長浜観音という仏さまが据えられていましたが、現在は金堂内部に)
*大橋新太郎氏とは?
新潟県長岡生まれ。父、大橋佐平が明治20年(1877)に設立した出版社「博文館」社長として成功。出版界から政財界へ活動の幅を広げ、東京ガス会社で渋沢栄一の信頼を得て取締役となり、そこから日本鋼管や日本郵船、第一生命など、50以上の大企業の経営に参画するようになった。
金沢とのつながり → 風光明媚なところが気に入って、金沢に別荘を持った。
日本製鋼所が金沢に進出するとき、金沢の景観保護と、地元の人々を高い賃金で積極的に雇用することを実現した。
関東大震災の影響で倒壊した金沢文庫の再建にもあたり、多額の寄付をし、称名寺の本堂や鐘楼の復興にも力を尽くした。
大橋氏は称名寺裏山三山に観世音菩薩を100体配置し、巡礼コースも作ったそうで、当時は、観光地として大いに賑わったようです。大橋新太郎氏は金沢の偉人ですね。
尾崎紅葉が「金色夜叉」で描いた「富山」は大橋新太郎、「お宮」は松井須磨子、「寛一」は児童文学の巌谷小波がモデルだと言われています。
八角堂から、やはり分岐があり、台の広場方面へ進む尾根道もありましたが、観音広場方面へ下りることにしました。
少し下ったところで、こんな慈母観音さまとご対面。
でも、数えてみたのですが、百体はなかったような。残りは何処に??
そうそう、八角堂からの下りですが、
観音広場を過ぎると、直に称名寺の阿字ヶ池付近の上り口に到着。
そして、こちらが大橋新太郎氏所縁の百番観世音霊場の碑。
池の左側の広場に移動します。こちらにも見所がありそうですよ。
まずは、「楷樹(孔子木)」。
ほら、葉を見て下さい。
その後ろの一段高くなった場所には、北条実時の子・顕時と孫の貞顕の墓所がありました。
こちら、顕時公の五輪塔。
そして、貞顕公のもの。
墓所手前にあった称名寺と金沢文庫を結ぶ、中世の隧道(現在は通行不可)です。(画像は文庫側から)
今は現存しない三重塔も見えますね。養成講座で案内して下さった称名寺のガイドさん、かつての大橋新太郎氏のようなお方がいらして、寄付をして下さったら復元できるのにと、溜息をついてらっしゃいましたよ。確か、鎌倉・建長寺でも「華厳塔」でしたっけ、再建の話を伺ったことあったような...。何処も同じですねぇ。(-_-)
さて、中世の隧道から少しばかり離れた場所に、新しい現代の隧道が出来ています。
称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)=現在地辺り を描いた一枚をご紹介したくて写真に撮ったのですが、暗かったのか見事にぶれてしまっていて。。。<(_ _)>
これは、州崎晴嵐(すさきのせいらん)。
そうそう、今金沢文庫では企画展「泥亀永島家の面影~永島家文書とその世界~」を開催中。
*広重が描いた金沢八景は一度干拓が成功するも、再び大洪水で昔の入海に戻ってしまった時期の金沢八景と聞きました。
最後になりましたが(忘れてました~)広重の称名梵鐘で思い出しました。
称名寺の鐘楼・梵鐘です。
鐘楼は、寛政11年(1799)、江戸の米問屋・石橋弥兵衛(横に見えている石燈籠も)と女講中により再建されましたが、関東大震災で崩壊。大正15年(1923)、大橋新太郎夫人(須磨子)が再建。
称名寺、立派なお寺です。山門(仁王門)も大きいです。登楼出来なくて残念。あと、金堂も常時閉められているとのこと、がっかりですが、裏山の三山を含めて、広大な境内には驚くばかり。ゆっくりと流れる時間を感じました。もっと近くだったら、しょっちゅう来るのに…。まずは、桜の頃、キショウブの頃、彼岸花の頃、再訪しましょうかね。