かまくらむかしばなし(2016.07.16)
2016年 07月 16日
どうして、これを貸して下さったのかというと、この中に、頼朝の愛馬「摺墨」のことが載っているから。ほら、私、宇治川合戦の先陣争い、知らなかったでしょう?(お恥ずかしい限りで。。。)
cf : 頼朝公の愛馬「いけずき」と「するすみ」(2016.07.10)
あの日、帰宅して、早速調査済みですけど、わざわざ本を持って来て下さって、しかも1週間貸して下さると!嬉しいです。ありがとうございま~す。(涙)
この本、馬のことだけじゃないんですよ。鎌倉のいろんな話が載っていて(68話)、とても興味深く読みました。私も、この本欲しかったけど、見つけられそうにないので、とりあえずコピーさせていただいたくらいで。(^_^;)
では、ここから今回は、「摺墨」のページ、ご紹介します。
いまではその場所も定かではなくなってしまいましたが、十二所の梶原屋敷の奥の山裾に「お馬冷し場」という冷泉をたたえたやぐらがあり、古い「鎌倉絵図」には必ず描かれて居り、名所の一つとなっていました。ここは頼朝のころ名馬生唼(いけずき)・摺墨(するすみ)の裾をする(馬の足を洗う)こところになっていたと伝えられていました。
ところでこの名馬二頭は生唼が佐々木高綱に、摺墨は梶原景季がそれぞれ頼朝から拝領して、宇治川合戦で先陣を争った話は有名です。しかし、この二頭の名馬がその後どうなったかは殆んど知られていません。だが、摺墨に関してはその最後の様子が、わずかながら伝っています。
梶原景時がその専横な振舞の度が過ぎることを安達盛長ら六十余人に訴えられ、一族と共に鎌倉を去り所領の一ノ宮へ引きこもったのは正治元年(1199)十二月のことです。翌二年の正月、景時は京で事を起こそうと企て一族郎党をひきいて一ノ宮を発ったが、同月二十日には駿河の狐崎で吉香・渋河ら国侍と戦って戦死しました。
摺墨の主人景季もこの時、一族とともに割腹して果てました。景季は腹を切る前に愛馬摺墨を放してやろうとしましたが、馬は主人にすり寄ってどうしても離れようとしません。仕方なく景季は涙ながら摺墨を斬り捨て冥途の供としました。こうして摺墨は主人とともに駿州宇部村の牛谷山(いまは梶原山と呼ばれています)の山頂で死んだと伝えられます。
梶原山に生えている笹は葉先が破れて矢筈の形をしているのが多く、これを土地の人は馬喰笹と呼んでいるそうです。そのいわれは摺墨がこの山に馳せ登る時、腹がへっていたため路ばたの笹を食いながら登っていったからだとの伝説が残っています。