東慶寺 天秀尼の墓の隣の宝篋印塔(2017.07.08)
2017年 07月 08日
第20世・天秀尼の無縫塔(卵塔)と第21世の卵塔の間にある小ぶりの宝篋印塔なんですが、今回はこの石塔について、忘れないように、まずは記しておきたいと思います。
江戸時代にまとめられた《聞書雑話集》によると、三宅善兵衛夫妻は泉州岸和田城主小出大和守(吉政)に縁があり、その縁で(淀殿によって)泰姫が預けられたとされます。
その後どのようにして大阪城にはいったのかについては、記録がないのですが、三宅善兵衛が大阪落城の時に戦死したと伝える書(新東鏡しんあずまかがみ)があることから、三宅善兵衛夫妻が泰姫を連れて大阪城に入ったものと思われるそうです。
三宅善兵衛が自主的に大阪城に入ったのか、それとも小出家がそうさせたのかは不明。小出家が泰姫を周辺に置いておくことの危険性を察して、三宅善兵衛夫妻を大阪城に追放することで関係を断ち切ったのかもしれず、いずれにしても泰姫は秀頼の子・国松と二人、秀頼が自刃する5月8日までは、淀殿のそばで暮らしていたとされます。
そして、泰姫は大阪城から脱出するのですが、乳母に抱えられ逃げたそうで、乳母というのが、三宅善兵衛の妻(武道の心得あり)。
*作家の永井路子氏は泰姫と乳母は淀殿の実妹初(常高院)について、ほかの女官たちと共に逃げたのではないかと推理しています。
大阪城から逃げて豊臣恩顧の大名加藤嘉明の家中の船に乗った女性たちの中に「三宅善兵衛の子」と名乗る人物がいたことから、もしかしたら船で逃げたのかもしれず。(この加藤嘉明公の嫡男、加藤明成公(会津藩第2代藩主)と家老・堀主水が起す会津四十万石改易事件にのちの天秀尼=泰姫が関わってくるのだから面白いです!)
以上のことから、画像上の宝篋印塔ですが、その後東慶寺の尼僧となった天秀尼の乳母であり、生涯天秀尼の世話にあたった、この三宅善兵衛の妻のものではないかと考えられるそうです。(もちろん確実ではありませんけど)
「天秀尼の生涯」(三池純正著)の中に東慶寺にある天秀尼の墓の前にある石灯籠には「三宅」という文字が読み取れるとあったのですが、これは、いささかよくわからず。。。(正面にはなかったです)
こちらが天秀尼のお墓。
〇 今度訪れた時、灯籠の後ろと横を確認するのが宿題です。
天秀尼・墓の隣にあるこの宝篋印塔に関しては諸説あります。映画「のぼうの城」でお馴染み・甲斐姫のものとも。それについてはまた別の機会に。