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高知市介良 源希義公のお墓(2017.09.05)

さて、主人が帰宅して、言うには、源希義公のお墓探しはなかなか大変だったそうです。
聞くところによれば、空港からまずは、タクシーでJA介良支社に向かったそうです。多分目印として都合がよかったのかと。
JA介良支社は介良川の手前(西側)。そこで対岸の「朝峯神社」の場所を教えてもらい、そこまでは苦労することなく、徒歩10分位で到着したそうです。
ちなみに、介良川の西側からの写真です。
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向こう側に見えている山の中に希義のお墓があるんだそうです。
さて、朝峯神社付近で、どなたかに希義公のお墓の場所を確認しようと思っていたとのことですが、誰もいなかったそうで、仕方なく、近くの民家に寄ってみたところ、おじいちゃんが出てらして、教えてもらえたのはいいのですが、主人がその通り歩いていっても、教えていただいた源希義墓、西養寺跡うんぬんという標識が見つからなかったとか。。。(>_<)
とうとう、今度は高知新聞販売所にお尋ねしてみたそうです。
どうやら、おじいちゃんが教えて下さった標識は現在はもうなくなっていたようで、主人がやっとこさ見つけたのは、こちらの標識。
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この上の赤いのが矢印になってるんです。ほら。
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さて、ここを入っていくと、正面にこんな歌碑があったそうです。
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これは、小松石に刻まれた十八代山内豊秋氏による歌碑とか。(読めなかったそうです)
歌碑の横に並ぶ案内板です。一つは小松石の由来。
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もう一つは山内氏の由来。(山内氏と言ったら、平治の乱で亡くなった山内首藤俊通の菩提を弔うため、息子経俊が建立した明月庵(=明月院の前身)が真っ先に思い浮かびますね)
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そうなんですよ。初代土佐藩主山内一豊の祖は北鎌倉・山ノ内荘の山内氏です。
ついでに付け加えますと、山内首藤経俊は石橋山の戦いの際、源氏方につかず、平家方についてなんと頼朝公に矢を放っているんです。(鎧の袖に当った)
その後、捕えられるのですが、母が頼朝の乳母であったということで(母が頼朝に直訴して)、許されています。(以後も経俊はぱっとせず…)

案内板ですけど、ほかに、清和天皇家系図というものもあったそうです。希義公のこと、分かりやすくなりますものね。
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さて、主人が撮ってきてくれた次の写真はこちらです。
山の中へと誘う小径はこんな感じだったと。
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蜘蛛の巣がものすごかったそうです。
そして、鳥居が見えてきて、
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石段の上に希義のお墓をようやく見つけたということです。
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こちら西養寺跡無縫塔
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案内板にもある通り、西養寺は希義のために創られたんですよね。だから、そこにある無縫塔はやはり希義のお墓と考えていいのではないかしら。
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悲運の希義公、南無。

案内板がもう一つ。
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鎌倉の頼朝公のお墓の傍らにも、これと同様のことを記した案内板が立ってますよね。(少し気持ちが和みます)

それから、こちらは、無縫塔の傍らの歌碑。
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いたはしや 同じ 枝葉の末ながら 咲かで朽にし 跡のしるしは
山内豊房
介良高知市合併二十周年記念実行委員会

神社、多分源希義神社というのだと思います。
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神社の正面から見た写真はありません。主人曰く、何もなかったと。(>_<)

平成2年9月25日に源希義公八百八周年命日祭が行われたようですが、それより後はどうなのかな。案内板の朽ち果て様が寂しいですね…。
(高知は、坂本龍馬さんをお構いしないといけないしね)

それでは、主人が撮ってくれた、とても面白い案内板になります。最後にどうぞ。
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ほんとかしらね??
by b_neige | 2017-09-05 17:36 | 旅行 | Comments(0)
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