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高知市介良 源希義公のお墓(2017.09.05)

さて、主人が帰宅して、言うには、源希義公のお墓探しはなかなか大変だったそうです。
聞くところによれば、空港からまずは、タクシーでJA介良支社に向かったそうです。多分目印として都合がよかったのかと。
JA介良支社は介良川の手前(西側)。そこで対岸の「朝峯神社」の場所を教えてもらい、そこまでは苦労することなく、徒歩10分位で到着したそうです。
ちなみに、介良川の西側からの写真です。
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向こう側に見えている山の中に希義のお墓があるんだそうです。
さて、朝峯神社付近で、どなたかに希義公のお墓の場所を確認しようと思っていたとのことですが、誰もいなかったそうで、仕方なく、近くの民家に寄ってみたところ、おじいちゃんが出てらして、教えてもらえたのはいいのですが、主人がその通り歩いていっても、教えていただいた源希義墓、西養寺跡うんぬんという標識が見つからなかったとか。。。(>_<)
とうとう、今度は高知新聞販売所にお尋ねしてみたそうです。
どうやら、おじいちゃんが教えて下さった標識は現在はもうなくなっていたようで、主人がやっとこさ見つけたのは、こちらの標識。
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この上の赤いのが矢印になってるんです。ほら。
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さて、ここを入っていくと、正面にこんな歌碑があったそうです。
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これは、小松石に刻まれた十八代山内豊秋氏による歌碑とか。(読めなかったそうです)
歌碑の横に並ぶ案内板です。一つは小松石の由来。
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もう一つは山内氏の由来。(山内氏と言ったら、平治の乱で亡くなった山内首藤俊通の菩提を弔うため、息子経俊が建立した明月庵(=明月院の前身)が真っ先に思い浮かびますね)
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そうなんですよ。初代土佐藩主山内一豊の祖は北鎌倉・山ノ内荘の山内氏です。
ついでに付け加えますと、山内首藤経俊は石橋山の戦いの際、源氏方につかず、平家方についてなんと頼朝公に矢を放っているんです。(鎧の袖に当った)
その後、捕えられるのですが、母が頼朝の乳母であったということで(母が頼朝に直訴して)、許されています。(以後も経俊はぱっとせず…)

案内板ですけど、ほかに、清和天皇家系図というものもあったそうです。希義公のこと、分かりやすくなりますものね。
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さて、主人が撮ってきてくれた次の写真はこちらです。
山の中へと誘う小径はこんな感じだったと。
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蜘蛛の巣がものすごかったそうです。
そして、鳥居が見えてきて、
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石段の上に希義のお墓をようやく見つけたということです。
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こちら西養寺跡無縫塔
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案内板にもある通り、西養寺は希義のために創られたんですよね。だから、そこにある無縫塔はやはり希義のお墓と考えていいのではないかしら。
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悲運の希義公、南無。

案内板がもう一つ。
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鎌倉の頼朝公のお墓の傍らにも、これと同様のことを記した案内板が立ってますよね。(少し気持ちが和みます)

それから、こちらは、無縫塔の傍らの歌碑。
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いたはしや 同じ 枝葉の末ながら 咲かで朽にし 跡のしるしは
山内豊房
介良高知市合併二十周年記念実行委員会

神社、多分源希義神社というのだと思います。
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神社の正面から見た写真はありません。主人曰く、何もなかったと。(>_<)

平成2年9月25日に源希義公八百八周年命日祭が行われたようですが、それより後はどうなのかな。案内板の朽ち果て様が寂しいですね…。
(高知は、坂本龍馬さんをお構いしないといけないしね)

それでは、主人が撮ってくれた、とても面白い案内板になります。最後にどうぞ。
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ほんとかしらね??
by b_neige | 2017-09-05 17:36 | 旅行 | Comments(0)

MOA美術館-リニューアル記念名品展+杉本博司「海景‐ATAMI」(2017.02.06)

熱海のMOA美術館を訪れました。
かなりの高台にある美術館。敷地に入ってからも、エスカレーター入口まで、かなりあります。

エスカレーターを7台乗り継いで、美術館へ入って行くのですが、途中のドーム型の円形ホール天井に映し出される万華鏡アート(依田満・百合子夫妻による)は見事でした。

さて、MOA美術館は、約11ヶ月に及んだ改修工事後、2017年2月5日にリニューアルオープンでした。訪れたのは6日だったから、ほとんどジャストのタイミング。リニューアルを記念した企画展は、≪リニューアル記念名品展+杉本博司「海景‐ATAMI」≫です。
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熱海梅園をさんざん歩いて、お次は熱海桜を観に糸川遊歩道へ。更にその後こちらの美術館ということで、少々疲れ、展示されていた作品全てを鑑賞した訳じゃありません。(^^ゞ

それでも、国宝はチェックしてきましたよ~。
一押し!尾形光琳 国宝「紅白梅図屏風」
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(フラッシュをたかなければ作品撮影OK)

それに、野々村仁清(京焼)の国宝「色絵藤花文茶壺」。
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あと、記憶に残っているのは重文 樵夫蒔絵硯箱 伝本阿弥光悦 江戸時代17世紀
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重文 色絵桃花文皿 鍋島 江戸時代17世紀末~18世紀初頭
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展示スペースはとても広く、ゆったり、かつ美しかったです。
屋久杉、行者杉、黒漆喰、畳等日本の伝統的な素材を用いて、展示作品を最大限に引き立たせる空間を創出しています。
(展示スペースの設計を手掛けたのは、現代美術作家・杉本博司氏と建築家・榊田倫之氏によって主宰される建築設計事務所「新素材研究所」)
考え抜かれた展示室は、鑑賞には申し分なく、快適そのものでした。

併設されているカフェレストラン「Au Mirador=オー-ミラドー」で遅い昼食をとりましたが、こちらも大変心地よいレストランで、よかったです。(お値段は少々高めですが)

湯河原-熱海の旅、終了です。
そうそう、熱海桜はね、残念ながら終盤でしたね。
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平年より3週間早く昨年末に開花したそうだから、ピークは1月中旬だったのではないかしら。まっ、またいつかのお楽しみです。
by b_neige | 2017-02-11 06:53 | 旅行 | Comments(2)

湯河原?熱海?千歳川沿いの古刹-福泉寺(2017.02.05)

2月5日に訪れたのは、湯河原梅林(幕山公園)と五所神社と福泉寺です。
今回のレポートは最後の福泉寺になります。(そんなに画像、ないんですけどね)

福泉寺は湯河原町と熱海市の境を流れる千歳川沿い。川を渡った対岸にあるので、所在地は熱海です。カーナビで、いくら湯河原を探してもないはず!

少し高台にあります。
ご本堂は茅葺き屋根。曹洞宗の古刹。
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おもしろいのは、境内に肩から上だけの珍しいお釈迦様が安置されているんです。
それも陶製ですって。宿までの途中にあったので、寄ってみた次第。
ではどうぞ。
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像高2.5m。
名古屋城主の徳川光友が、母の菩提を弔う為に造らせたそうです。名古屋にあった時は、肩から下もあったのだとか。(戦後、この福泉寺に奉納されたということです)

実は、この日、晩に葬儀ががあるということで、境内は、その準備中でした。この首大仏?の正面にも大きな車が停まっていて、本当は手前の仁王像を入れて写真を撮りたかったのですが、無理でした。<(_ _)>
こちら、斜め横から。
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そして、真横から。
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胴体は何処にいってしまったのでしょうね??
そう言えば、大船の観音様も、胸像ですよね。昔々、電車から眺めていたときは、山に隠れて、御足元が見えないのだとばかり…。

このお釈迦様は珍しかったですが、素敵だなと思ったのは、その脇にお祀りされていた、こちらの観音様。
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優しそうなお顔にホッとしませんか?

上の境内は墓苑になっていて、そちらまでの小径には、こんな風に沢山の石仏が配置され、
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なかなか見どころが多いお寺でした。

ただね、雨が本格的になってきて、退散~。宿には3時頃到着。まずはお風呂であったまり、母の誕生日のお祝いのお膳を楽しみました。♪♪
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by b_neige | 2017-02-10 21:39 | 旅行 | Comments(0)

湯河原 五所神社(2017.02.05)

ほとんど写真がなくて恐縮なんですが(写真は撮ったんですけど、プライベート写真ばかりで、ごめんなさい)、湯河原町の五所神社も源頼朝公、そして土肥実平公ゆかりの歴史ある神社ということで、レポートにしておくことにしました。

こちらは、いただいたパンフレットから。五所神社です。
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境内には、上の画像の右側になりますが、ご神木の楠(「五所神社のクスノキ」)がそびえています。
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樹齢は約850年。樹高36m 胸高周囲8.2m
五所神社の親神さま天照大神の力を授かった楠と伝わります。また、源頼朝が戦勝祈願をした木。若木だったこの木に「苦難にも打ち勝ち、互いに生長を誓おう」と声を掛けたということです。
幹に触ってみて下さいとあったので、触りまくりましたよ。巨樹のパワーを感じました。

神社の由緒:
今からおよそ1350年前の天智天皇の御代、加賀の住人二見加賀之助重行らの手によりこの地方が開拓された時、土肥郷の総鎮守として祀られた。
1180年8月、源頼朝伊豆より挙兵の際、この地の豪族土肥次郎実平は一族とともにこれを助け、頼朝の軍を土肥の館に導き、石橋山合戦出陣の前夜は、社前において盛大な戦勝祈願の護摩をたいたと伝わる。
この時、実平によって佩刀(はいとう=腰にさげていた太刀)一振が奉納され、今日なお社宝として残る。
以来、土肥一族を始め、藩主、領主、庶民の崇敬厚く、現在に至る。

ご祭神:
天照大神(あまてらす おおみかみ)天忍穂耳尊(あめの おしほみみの みこと)瓊瓊杵尊(ににぎの みこと)彦火々出見尊(ひこほ ほでみの みこと)鸕鶿草葺不合尊(うがや ふきあえずの みこと)誉田別尊(ほんだ わけの みこと)素戔嗚尊(すさのおの みこと)伊弉諾尊(いざなぎの みこと)伊弉冉尊(いざなみの みこと)

小雨模様の中、お参りしました。
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社殿正面から(パンフレットより)。
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そうそう、左右の狛犬ですが、堂々としていました。
向かって左側。
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恰幅あって、ユニークでしょう?
右側もどうぞ。
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この社殿の後ろにあるご本殿(県指定重要文化財)。(パンフレットより)
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境内には先ほどご紹介した楠の他、もう一本、大きな「イチョウ」の木があります。樹齢800年とか。台風で傷んでしまっているようですが、全くお恥ずかしいことに、多分駐車場の一角にあったのがそうだと思いますが、楠に惹かれて、スルーしてしまいました~。(>_<)(>_<)<(_ _)>

それから、正面の鳥居の道を隔てて向かいに、「明神の楠」という、またこれも立派な巨樹を見ることができます。
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昔、参拝者は前方の千歳川の清流で禊をおこない、この「明神の楠」の下を通って神社に参拝していたそうです。往時の参道には数多くの楠の巨木が生い茂っていたとか。現在はこの一樹のみ残ります。
樹齢約850年 根回り15.6m

幹は本当に太く、ちょっと空洞になった部分には小さな鳥居が据えられ、石仏が祀られていました。
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あとは、そうですね、境内の各所に大きな七福神像が建てられていて、ユーモラスでした。
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ご利益ありですね!
by b_neige | 2017-02-10 06:30 | 旅行 | Comments(0)

湯河原 城願寺本堂内部の絵物語(2017.02.06)

城願寺のご本堂の長押の上に掲げられた絵物語は10数枚ありました。
いくつかご紹介しますね。

◎源頼朝土肥の館より出陣す

◎石橋山での佐奈田与一義忠の奮戦

◎大杉の洞穴に潜む頼朝主従
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これは、ご存知、梶原平三景時が蜘蛛の巣ばかりで何もいないと言って、頼朝を助けたエピソードになります。

◎ししどの岩窟の頼朝主従
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これは、頼朝が髻の中に入れていた「聖観音像」を、首を取られた時に、源氏の大将として恥ずかしいからと、取り出し窟の中に置いたままにしたエピソードです。→この聖観音像はのち、鎌倉の頼朝のもとに戻り、持仏堂の本尊に。

◎食糧を運ぶ実平の妻
◎土肥実平の焼亡舞(じょうもうのまい)
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山中に逃げた頼朝主従を探し出すことが出来ず、伊東へ引き上げる伊東祐親は実平の館に火を放ちます。山上からそれを見ていた実平が歌って舞ったというエピソード。
(土肥祭で今日も披露されています=延年の舞)

◎頼朝主従小道地蔵堂に隠る
◎大庭景親純海上人を拷問す
◎純海上人小道地蔵尊の霊験を説く
◎源頼朝公鎌倉に純海上人を召す
◎小道山頼朝寺の建立
頼朝主従は山中で、小道地蔵堂の床下に隠してもらい、九死に一生を得ます。堂主の純海和尚は拷問を受け、気絶。追手の大庭景親が去った後、頼朝が変わり果てた和尚の姿に涙したところ、涙が和尚の口に入り、和尚は息を吹き返しました。頼朝は鎌倉で政権を握ると、純海和尚に寺領を与え、お堂を建て、頼朝寺(頼朝山小道寺)の称を送ったと伝わります。

◎源頼朝主従岩の港より安房へ落つ

◎土肥次郎実平手植の柏槙

長押の上なので、ずっと見上げていると首が..。(´д`)

「城願寺」は、源頼朝公、土肥実平公 出陣の地。
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四季彩の町、湯河原には鎌倉幕府開運街道=ハイキングコースが設定されています。
by b_neige | 2017-02-09 16:46 | 旅行 | Comments(0)

湯河原 土肥実平公菩提寺ー城願寺(2017.02.06)

さて、城願寺は鎌倉幕府創設の源頼朝を助けた土肥次郎実平一族の菩提寺です。
800年以上前に、実平は荒れ果てていた密教の寺院を一族の持仏堂とし、犠牲者の菩提を弔い一族の長久を祈るため、「萬年山成願寺」として再建。「成願寺」は、その後、室町時代初期、臨済宗として再興され、更には15世紀に曹洞宗の寺となり、「城願寺」に改名、今日に至ります。

はい、こちらがご本堂です。
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実は車で移動したため、山門を通りませんでした。よって山門からの写真がありません。
撮らなくっちゃと思って、忘れちゃいました~。<(_ _)>

山門から石段を上ってくると、上りきった境内の右手に、実平お手植えと伝わるビャクシンの木がそびえています。樹齢800年を越えるそうです。(国の天然記念物)
神奈川県内では一番古いんですって。ふ~ん。そうなんですね。たとえば、鎌倉のビャクシンですが、建長寺の蘭渓道隆お手植えのビャクシンは750年でした。800余年には負けますぅ。
墓苑側から見た、そのビャクシンの木です。
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こちらは、ご本堂を背にして。
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そんなに曲がりくねっていなくて、比較的、上に伸びています。とっても風格のある素晴らしいビャクシンです。

ビャクシンの木の横にある七騎堂。
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石橋山の戦いで敗北した頼朝主従8騎は、山中を逃げ落ち、船で安房に向かいますが、頼朝公は8騎は縁起が悪いということで7騎にするよう、実平に命じます。(父義朝が平治の乱で敗れ、落ち延びる際8騎だったことから)

謡曲「七騎落」:
実平は子どもの遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させますが、ちょうど沖合にいた和田義盛に救ってもらいもらい、歓喜のあまり酒宴を催して舞になるという史劇的創作曲

それで、お堂の中には、源頼朝、土肥実平、岡崎義実、安達盛長、新開忠氏、土屋宗遠、田代信綱の7像が祀られています。(お堂は閉められていて、確認出来ず)

そうそう、山門から石段を上がって、右側にビャクシン、七騎堂がありますが、左側には「伝 源頼朝腰掛石」があったんですよ。
主人と私と交互で座って写真を撮りました。(笑)それ故か、その腰掛け石だけ写真、撮るの忘れた次第でして…。ごめんなさい。<(_ _)>
座り心地がいい石(岩?)でした。

それから、土肥実平一族の墓所へ。
鎌倉幕府成立後、実平は、現在の広島県三原市にある沼田荘に長男の遠平と移住し、そちらで亡くなりました。遺骨は分骨されて、三原市米山寺と、この城願寺に葬られ、その後、遠平も、沼田荘で亡くなり、同様に城願寺に葬られました。(実平のお墓は、小田原など他にもあるようです)
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正面4基の五輪塔のうち、向かって左側が実平夫妻、右側が遠平夫妻のもの。
*** 実平の嫡男・遠平の正室は、万劫御前です。(伊東祐親の娘=工藤祐経の前妻)
五輪塔は、どれも銘がなく、いつ建立されたものなのか、不明とのこと。
こちら、正面から左側の方。
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同じく右側の方。
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広さは10坪ほど。墓石は全部で66基あるそうです。(墓石は箱根火山外輪山溶岩や中央火口丘溶岩とか)
また、五輪塔、重層塔、宝篋印塔など各種の墓型が並ぶ墓所は珍しいと説明板にありました。→神奈川県の指定文化財

さて、最後にお堂に昇堂。
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きらびやかでしょう。
面白かったのは長押の上に頼朝公が石橋山で敗戦し、逃げ落ちている間の出来事が絵物語風に紹介されていること。
これは、大変興味深かったです。次回でご紹介します。

おまけ: 境内で見つけた往年の時代劇スター・片岡千恵蔵さんのお墓。
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湯河原駅の土肥実平公銅像前で写真を撮っている時、タクシーの運転手さんに教えてもらいました。
(表の墓碑銘はご本名で植木さんでした)
by b_neige | 2017-02-08 20:01 | 旅行 | Comments(0)

JR湯河原駅前の土肥実平公並夫人像(2017.02.05)

JR湯河原駅前に立つ、土肥実平公と妻の像です。
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土肥実平とは??
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桓武平氏高望王の五男・平良文の流れをひく、相模の豪族、中村党・中村宗平の次男。土肥郷(今の湯河原町、真鶴町)を本拠としたことから土肥氏の祖。

中村党とは??
中村宗平は相模国中村荘(今の小田原氏中村原、中井町中村付近)に因んで中村荘司と称した。嫡子の重平は父から中村の名字を継承。次男の実平は土肥氏、その息子の遠平は小早川氏、三男の宗遠は土屋氏を、四男の友平は二宮氏を、五男の頼平は堺氏を称した。→中村党

1180年の源頼朝の挙兵に際しては、中村党を率いて参じ、頼朝から信頼される。山木兼隆を討った頼朝は、土肥実平の案内で土肥郷に入り、三浦氏との合流を図っている。石橋山の戦いで敗れた頼朝に従った7・8騎の中に、土肥実平の名前がある。自害を決意した頼朝に自害の作法・故実を伝授したり、頼朝と行動を供にしたいと申し出た加藤景員や宇佐見祐茂に対して、敵に見つからないよう、バラバラに逃げることが最上の策と説得したとされる。頼朝は実平が用意した船で、真鶴から房総半島の安房国へ脱出した。

以後、実平は富士川の戦い、常陸国の志田義広討伐に従軍。また、この間、奥州から頼朝の陣を訪れた源義経を取り次いだり、また梶原景時を頼朝に仲介している。

宇治川の戦い、一ノ谷の戦いに加わり、その功績により、吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられ、山陽道を守り、源範頼の進軍を支えた。梶原景時と共に範頼・義経の奉行として遠征軍に派遣され、頼朝の信任が厚かった。
建久元年(1190)の頼朝上洛の際には、右近衛大将拝賀の隋兵7人の内に選ばれている。

建久2年(1191)7月、厩の上棟奉行をしている記述(吾妻鏡)を最後に、実平の名前は史料から消える。(頼朝と義経の対立の影響を受けて政治的に失脚した可能性も大)
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こんな具合です。頼朝主従の中ではなかなかの重鎮ですね。
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立派な銅像です。蛭ヶ小島の頼朝・政子像よりいい感じ。
そうそう、隣の妻の像ですが、民や農民に姿を変えて敵を欺き、頼朝が逃げ込んだ「ししどの窟」に食糧を運び消息を伝えたそうです。→武士の妻の鏡!

また、この銅像の前には土肥実平館跡の碑があります。
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実はこの場所(駅前)から徒歩10分余の所に、土肥実平の菩提寺「城願寺」があり、そこが館跡ということですが、碑の由来には御庭平の地とありました。

では、次のレポートで、その城願寺、ご紹介します。
by b_neige | 2017-02-07 17:18 | 旅行 | Comments(0)

湯河原梅林と熱海梅園(2017.02.05~06)

少しご無沙汰してしまいました。<(_ _)>
昨日、今日と一泊で湯河原に行ってきました。母の誕生日のお祝いです。
母は、やれ腰が痛いの、膝が痛いのと言ってますが、幸い何の持病もなく、とりあえずはまぁまぁ元気。
昨日は湯河原の梅林、宿周辺の観光スポット?(神社とお寺)を車でまわり、今日は熱海梅園とMOA美術館へ。3時過ぎ、母達一行が熱海から新幹線で戻り、私は主人と、そのまま車で帰宅。
昨日午後は生憎の小雨模様でしたが、今日は穏やかな天候に恵まれ、楽しい旅でしたよ。
母は、びっくりするほど、よく歩いてくれて…。歩きすぎかも。明日、明後日大丈夫か、ちょっと心配しています。
写真はね、あまり撮らなかったんですよ。湯河原の梅林(幕山公園)は、一枚のみ~。
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ちょっと弱い雨が降って霞んでいます。でも、ふんわり、柔らかな色合いがきれいでしょう?そうですね、4分咲きくらいでした。
熱海の梅園は、もう7、8分咲きだったかも。月曜だというのに、結構な人出で驚きました。
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こんな感じです。

最後、熱海からの帰路に、主人と土肥實平所縁の城願寺を訪れました。のちほど、レポート、アップしたいと思います。
ごめんなさい、今日はここまで。もう休みま~す!<(_ _)>
by b_neige | 2017-02-06 22:54 | 旅行 | Comments(0)

石橋山古戦場(2016.09.26)

伊豆から箱根を経て、石橋インターで下り、そのまま熱海方面へ。蒲鉾の鈴廣を過ぎると、右に上っていく細い側道がみえてきます。迷うことなく、そちらへ。この道、スゴイ道ですが、そのまま道なりに。佐奈田霊社の無料駐車場が便利です。

さて、車を停めて、先ほど車で上ってきた道をちょっと下ります。古戦場の碑がありました。
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辺りは、相模湾を見下ろすミカン山の斜面。
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写真、沢山撮ったつもりだったんですが、帰宅して確認したら、これ以外なくて…。ほんと申し訳ない限り。。。m(_ _)m

道なりに南下していくと、こんな道標が。
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石橋山の合戦で佐奈田与一義忠が討死した場所。
佐奈田霊社でいただいた資料から:
佐奈田与一義忠は郎党15騎をひきいて先陣についた。その佐奈田の陣地へ敵の副大将俣野五郎景久が75騎を従えてきた。これが乱戦の始まりであった。雨闇の中なので敵も味方も声をかけねば相手がわからなく、義忠と景久は一騎討ちの勝負をした。馬から落ちて上になり下になり、ころがりねじれた事から地名「ねじり畑」がつけられた。
隙を見て義忠は景久の首を刺そうとしたが、どうしたことが刀をいくら抜こうとしても抜けない。前に数人の武士を斬ってきた為に刀に血のりがついていて抜けなかったのだ。そこへ平家方の長尾新五の弟・新六がかけつけて来て義忠の首を取ってしまったのであった。
右側に、この場所「ねじり畑」から上の方へと続く長い石段があります。
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登って行くと佐奈田霊社で与一義忠が祀られています。そちらは後で行くことにして、先を進みます。
この先には、義忠討死後、敵陣に斬りこみ、8人を討ち取って壮烈な戦死を遂げた郎党・文三家安が祀られているお堂・文三堂があるんです。
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石段を上った先のお堂です。
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お参りをして、来た道を引き返し、今度は、佐奈田霊社への石段へ。はぁはぁ、汗をかきながら登りました。
こちら、与一塚。
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吾妻鏡には、建久元年、頼朝が伊豆山権現を参詣し、その帰りにこの地を訪れ、墳墓の前で涙を流されたと伝わります。
風土記には、この与一塚の少し上にご神木の杉の樹があったとされます。ご神木、この樹のことでしょうか。
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社殿前に出ました。
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お社の手前左側にあった手附石です。
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佐奈田与一義忠は石に手をつけば手形がつくといわれるほどの大変な力もちであったそうです。(すごい~)

佐奈田霊社の方が、どうぞ中にお上がり下さいとおっしゃるので、昇殿させていただきました。(カメラもOKって)

佐奈田与一義忠の菩提寺は石橋にある石王山地蔵院宝寿寺。その草庵の旧跡に天正年間に開山真源和尚が真言宗のお寺を建立し、その後、古戦場内に与一義忠の霊を祀る社、佐奈田霊社を建立しました。

お社の内部です。
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正面の高いところに祀られた与一義忠公。
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その向かって左前に与一義忠公持仏として十一面観音菩薩さまが安置されています。
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寺宝として、建久2年に頼朝から、石橋山合戦での与一義忠の忠により、贈られた古文書。
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与一義忠に魁秀明神之号を贈られたものだそうです。
佐奈田与一義忠公、南無。

そうそう、与一義忠は持病の痰の為に大声を出すことが出来ず、郎党文三家安を呼ぶことが出来なかったと伝わり、のどの神様としても祀られています。
佐奈田飴、購入しました。
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境内から眺める相模湾。
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もう4時過ぎで、陽が落ちてきました。もう一度、先ほどの石段を下り、石橋山を眺めながら、駐車場へ。

石橋山古戦場って、こんな場所だったんだんですね。目の前に広がる相模湾。830年前の8月23日、頼朝はここで三浦一族や千葉常胤の援軍を待っていました。その中で始まった戦い。日も暮れようとしていました。しかも降りしきる雨。頼朝方300騎、大庭景親を大将とする平家方3000騎。これは厳しいですよね。(討たれなくてよかったの一言)
頼朝は安房の国へ逃れます。そこから源氏ゆかりの地鎌倉へ。この間、石橋山から1ヶ月後と伝わります。頼朝軍は5万余騎にもなっていたそうです。

旅行記、完。
by b_neige | 2016-10-07 17:19 | 旅行 | Comments(0)

韮山 本立寺(東慶寺の梵鐘)-韮山反射炉&江川坦庵邸(2016.09.26)

9/25-26の韮山・伊豆長岡への旅、残すは、26日に訪れた本立寺と韮山反射炉&江川坦庵邸のみとなりました。

それでは、本立寺です。
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何故、本立寺に行ったのかというと、北鎌倉・東慶寺の梵鐘がこちらのお寺にあるからなんです。
cf : 北条政子産湯の井戸-北条時政邸跡(円成寺跡)-堀越御所跡(2016.09.25)

時政邸跡に建立された円成寺にあった東慶寺の梵鐘なんですが、そもそも、一体どうして円成寺にあったのでしょう?
鎌倉幕府滅亡(北条家滅亡)後、北条高時の母・円成尼は、残された北条一族の妻や娘たちを引き連れ韮山に戻って、円成寺(尼寺)を建立し、一族の冥福を祈ります。その際、東慶寺から寄進されたのかもしれません。(だって、この梵鐘の大旦那は円成尼なんですもの)
そこのところ厳密には不明ですが、円成寺が焼失したのは江戸時代中期で、その時には円成寺に吊されていたということ。
その後、韮山の有力者・江川氏により、菩提寺の本立寺へ移されました。

本立寺は江川邸(今も残されています)から、ほど近い場所にあります。
こちら江川邸。(内部見学出来ます。ガイドさんがいらして詳しいご説明を窺えます。45分も!)
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江川家は清和源氏の流れをくみ、源満仲の二男・宇野頼親を祖とし、宇野姓を名乗りました。
6代目の親治が保元の乱(1156年)を避けて、その孫・親信が従者13人と伊豆の韮山に定住したと伝わります。(この13人の子孫は、現在でも江川邸周辺に居住しているとか)
親信の子・治信は、この地に流罪となっていた源頼朝の平家打倒の挙兵に応じて参戦して江川荘を賜わり、その後、15世紀中頃に狩野川の支流にちなんで、姓を江川と改めました。
28代・英長は徳川家康に仕え、伊豆が幕府の直轄地になるに及んで、代官としてこの地を統治することに。以後、明治維新まで、代々徳川幕府の代官を世襲して務めました。
特に、幕末の江川太郎左衛門英龍(坦庵)は、文化人、思想家、技術者として有名。
重要文化財 江川邸HP 江川坦庵の年表→http://www.egawatei.com/tannan.html

実は、この英龍を責任者として、韮山反射炉と品川台場の築造が決定されているんです。
ここで、韮山反射炉の画像、入れておきま~す。
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ガイドさんにくっついて20分ほどお話、うかがいました。
☆天保11年(1840)、アヘン戦争を契機に、日本では列強諸国に対抗するための軍事力強化が課題となる。江川英龍は海防政策を幕府に進言。鉄製砲を鋳造するために必要とされたのが反射炉だった。反射炉築造は順調には進まず、英龍はその完成を見ることなく亡くなったが、跡を継いだ息子の英敏が、安政4年(1857)、連双2基4炉からなる韮山反射炉を完成させた。
☆反射炉は、17世紀から18世紀にかけヨーロッパで発達した金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉。内部の天井がドーム状になった炉体部と煉積みの高い天井からなる。
炎と熱を反射するしくみから「反射炉」と呼ばれた。

明治日本の産業革命遺産として、エリア3韮山は世界遺産に認定されています。
(鎌倉はダメだったのにね)

お話を本立寺に戻します。
さて、本立寺は日蓮宗。
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そして、本殿手前右側、こちらが鐘楼で、
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はい、北鎌倉・東慶寺の元々の梵鐘です。
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ちょっとアップにしますよ。ほ~ら。
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銘文の最初に、「相陽山内松岡山東慶禅寺鐘銘」と刻まれています。文末には、「大旦那菩薩戒尼 円成」と。

ちなみに、東慶寺では、この鐘楼がなくなった後、補陀洛寺の梵鐘が吊されて現在に至ります。

それでは、最後に江川一族の墓地をどうぞ。
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この一角すべて江川家代々のもの。江川太郎左衛門英龍(坦庵)らの墓碑は一番高台にありました。
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お代官様ですものね。
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大変立派なものでした。南無。

以上、韮山・伊豆長岡、駆け足ですが楽しみました。一泊二日じゃ、少々時間が足りず、北条早雲の韮山城址や、頼朝・文覚上人ゆかりの毘沙門堂などにも行けずじまい、残念でした。またいずれ!?

帰路ですが、箱根越えで石橋山古戦場に寄りました。レポートは、次回に。
旅行記、あともうちょっとお付き合い下さいね。(汗)
by b_neige | 2016-10-06 21:39 | 旅行 | Comments(0)