ガイド協会史跡めぐり-源範頼と紫陽花(2012.06.25 part2)
2012年 06月 27日
源範頼ゆかりのお寺巡り。太寧寺と薬王寺。
まずは、この「源範頼」ですが、ご存知ですか? ちょっとマイナーな?人物ですよね。
源範頼(みなもとのりより) 〔以下、ガイド協会資料等より〕
生誕:久安6年(1150) 死没:建久4年(1193)
法名:太寧寺殿道悟大禅定門
官位:従五位下、三河守
父:源義朝 母:池田宿(磐田市)遊女
兄弟:頼朝、義経など 妻:安達盛長の女(むすめ)
源範頼は源義朝の六男、頼朝の異母兄弟として生まれ、義朝が平治の乱(1159)で敗死した後、藤原南家の学者、高倉範季(のりすえ)に保護され、遠江国蒲御厨(かばのみくりや)(現 浜松市)で成長した。このことから蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれる。
寿永2年(1183)冬、頼朝は後白河法皇の命を受け、木曽義仲討伐と打倒平氏のため、弟の範頼、義経を大将軍として上洛軍を派遣した。上洛軍は元暦(げんりゃく)元年(1184)正月に義仲軍を滅ぼして入京し、続く2月には福原京跡まで再進出した平氏軍を一ノ谷の合戦で破り、京都周辺の治安を回復した。
この功績によって、頼朝は範頼を三河守に推挙し、源家将軍の門葉(源家一門)の待遇を与えた。しかし、建久4年(1193)5月、範頼は曾我兄弟の敵討ちとして知られる「陰謀事件」に巻き込まれる。
*陰謀事件
建久4年5月、頼朝が催した富士の巻狩りの際、曾我五郎・十郎兄弟が父の仇である工藤祐経を討って本懐を遂げたのは有名な話。事件はその後、起こった。弟の五郎がさらに血刀をかざして頼朝の幕営を襲ったのである。大乱闘の中、兄の十郎が討たれ五郎は捕らえられて翌日殺された。
鎌倉では、頼朝が討たれたとのデマが飛び交い、動揺し悲嘆に暮れる政子に対し、巻狩りに参加せず留守役だった範頼は、「私がいるから心配ない」と慰めたのだが、この一言が頼朝の勘気にふれた。謀反の疑いあり、として伊豆へ追放される羽目に。修善寺に幽閉され、まもなく頼朝の命による梶原景時の討手を受けて、自刃した。
範頼の墓は修善寺にある。
ただ、範頼の死については、異説も多く、生存説もいくつかあるそうです。
一節では、修善寺を脱出した範頼主従は10数人。舟で上総を目指したが、途中で海が荒れたので、浦郷(うらごう 横須賀市)に上陸。
範頼主従をかくまった浦郷の漁師、平兵衛という者が、追跡してきた兵を鉈(なた)をふるって迎え撃ったことから、その忠義の賞として範頼から「蒲冠者」の「蒲」の一字を苗字として名乗ることを許された。これが追浜や金沢に多い「蒲谷」姓の由来と伝えられています。鉈(なた)をふるって迎え撃った処が、後に「鉈切り」という地名として残ったとか、範頼主従が追われて上陸した浜ということで「追浜」という地名になったとも。
主従は、瀬ヶ崎(金沢区六浦町)の薬師寺(太寧寺の前身)まで逃れたものの、最期を悟って自刃したといいます。
これで、やっと、太寧寺が出てきましたね。
金沢文庫駅から北上。太寧寺へ向かいます。
海蔵山 太寧寺(かいぞうざん たいねいじ) 臨済宗建長寺派。
開基:源範頼 開山:大興禅師
特別拝観ということで、本堂に上がり、ご住職さまのお話を伺います。
本尊は薬師如来立像。 151.2センチ 鎌倉時代(市指定文化財)(ネットより)
お陰で、拝ませていただくことが出来ました。
脇侍は日光、月光両菩薩(約45センチ)。一緒に祀られていた十二神将立像は、今は奈良国立博物館にあるそうです。(仏殿が狭くお祀りできないんだそうです)
寺宝として、範頼のお位牌(太寧寺殿道悟大禅定門 神儀)が仏殿右に。(ネットより)
また、「範頼公画像」も。(ネットより)
そして、境内左手にある源範頼の墓(五輪塔)です。お寺の移転に伴い、墓もこちらに移されました。
運命は残酷ですね。頼朝により、義経も範頼も命を絶たれてしまうとは。。。
また、義経は今でもTVや歌舞伎に登場するくらい人気があるというのに、範頼の方は。。。? 悲運の武将でした...。南無。
このお寺にはもう一つみどころが。
道路脇に、昭和38年「赤ひげ」のタイトルで映画化された赤ひげ先生のモデル、江戸の町医者・小川笙船(しょうせん)の歯を埋めた「雲語子之墓」があります。
太寧寺のレポートだけで、結構な分量に。。。
読む方も疲れますよね?
次に参拝した「薬王寺」は次回にまわすことにしますね。
続く
『源範頼の終焉の地の石碑』ですか。いつも八景方面から歩くと、夕照橋から野島に渡ってしまっているので、関東学院大学の方向には行ったことがないのです。機会があれば探してみますね。