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梅香る三渓園に鎌倉ゆかりの史跡を訪ねる(2016.03.04)

3月4日は鎌倉ガイド協会のツアーに参加。でも鎌倉じゃありません。横浜・根岸の三渓園へ。サブタイトルに旧東慶寺仏殿と天授院(旧心平寺地蔵堂)の特別公開とあって、これは何をおいても行かなければと。(笑)

JR根岸駅集合でバスに乗り、本牧市民公園前下車。まずは八聖殿を訪れました。
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建物の2階には名前の由来となった八人の聖人が展示されています。(仏教的に言うと、魂は抜いてあるそうです)
昔々訪れた時は、それしかなかったように思うのですが、現在は郷土資料館になっています。
たとえば、根岸湾は現在すっかり埋立てられていますが、以前は、この八聖殿・三渓園は崖上に位置していて、崖下は海でした。
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根岸湾の埋立ては昭和34年から約12年にわたって行われ(今は工業地帯)、海の景色が大きく変わったことが分かります。

これは、三渓園の展望台から見た景色。
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道路から手前は陸地だった部分。向こう側はすべて埋立て地というわけ。
崖の名残はまだ残っています。
八聖殿から三渓園南口に向う時の道沿い右側。
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埋立てってすごいことです。

さて、三渓園は、生糸貿易で財を成した実業家・原富太郎(三渓)の元邸宅。53000坪という広大な園内には、京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物(国重文は10棟)が点在しています。
ガイドさんと一緒に沢山の建物を見て回りましたが、ここでは、2つのみご紹介しますね。

まずは内苑にある天授院(てんじゅいん 国重文 大正5年移築)。
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この建物は鎌倉の旧心平寺地蔵堂とされています。建長寺創建の折、巨福呂坂上に移して再建されましたが、後に廃寺、地蔵堂のみが残りました。三渓は、その地蔵堂をこちらに移し、養祖父善三郎の持仏堂として使用していたそうです。(天授院という名称は、養祖父善三郎の法号から)
心平寺と聞けば、鎌倉通なら、すぐ「済田地蔵」が頭に浮かびます。
一寸八分の小さい地蔵を信仰していた済田左衛門が無実の罪で斬首されかけたのですが、何度刀を振り下ろされても、左衛門の首には届かず。彼は、日頃信仰していたその小さな地蔵を髪の髻(もとどり)の中におさめていて、刀がその小像にあたり、つまり地蔵像が左衛門の身代わりになって命拾いしたというわけです。左衛門は地蔵の加護に感謝し、心平寺地蔵の頭中に、その小像をおさめ、かつ、建長寺が創建された時、さらに小像を仏殿本尊の胎内にうつしたと伝わります。

この小さなお地蔵さま(=済田地蔵)は建長寺の秋の宝物風入れの際、展示されますが、とても人気があります。国宝の開山・大覚禅師(蘭渓道隆)の頂像や法語規則よりずっとね。
ということもあって、この建物、興味がありました。いつもはお堂の扉も閉まったままですが、特別公開。残念ながら中には上がれませんでしたが、それでも満足しました。
茅葺き、寄棟造。

内苑では、この他に、臨春閣(りんしゅんかく 国重文 三渓は豊臣秀吉が建てた聚楽第の一部「桃山御殿」と思っていましたが、その後の調査で、紀州徳川家の別荘「巌出御殿」ではないかとされています)、旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう 国重文 豊臣秀吉が母親=大政所のために大徳寺に建てた寿塔(生前に長寿を願って建てる墓)の覆堂)、聴秋閣(ちょうしゅうかく 徳川三代将軍家光が上洛した際、佐久間将監に命じ、二条城内に建てさせた茶亭)等、見学しました。

外苑の旧東慶寺仏殿に向う途中、三渓園のシンボルである三重塔に寄りました。ここからの池を見下ろす風景。
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そして、臥竜梅。(竜が地を這うような枝振りの梅の古木。一本じゃありません)
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三渓園の梅は、明治38年に川崎の小向の梅林から700本、横浜市磯子区の杉田梅林から400本を移植したそうです。現在は約600本の白梅、紅梅が見事な花を咲かせています。
(観梅会は確か3月6日までだったかな)

臥竜梅から目と鼻の先、旧東慶寺仏殿(国重文 明治40年移築)になります。
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東慶寺は江戸時代、徳川家の庇護を受けて、広い寺領を所有していましたが、明治に入り、かけこみ寺法も廃止され、急速に衰退して行きました。
どのような経緯があったのでしょう、茅葺き、寄棟造の堂々たる仏殿です。
この旧東慶寺仏殿に限り、三渓園の特別顧問という方からご説明を受けました。戦時中、この建物の屋根に爆弾が落ち、被害を受けたことなども教えていただきました。
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そうそう、内部にも入りました。禅宗様式。関東大震災後に補強された箇所など拝見しました。
床は四半敷き(しはんじき)。
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縁にたいして45度になるように斜めに敷いた石敷きのこと。
天井は格天井(ごうてんじょう)でした。
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さて、外苑では、その他、旧矢箆原家(きゅうやのはらけ)住宅(国重文の合掌造民家 昭和35年移築 )、旧燈明寺(とうみょうじ)本堂(国重文 室町時代前期の建立 昭和62年移築)、鶴翔閣(三渓が住まいとして建てた、延床面積950m2の大きな建物)等、じっくり拝見しました。

南口から入園して正門で解散。半日ツアーだったんですが、13:30になっていました。
三渓園には昔々2、3度来たことがありますが、これほど園内を隈なく歩き回ったことは初めて。池の畔のみフラットな歩道ですが、他はアップダウンが多い上、決して歩きやすい道でもなく、結構疲れました。

感想: 歴史を大切にする心、文化を愛する気持ちを持つこと、肝に銘じました。
それにしても、三渓さん、莫大な財産をお持ちだったんですね。生糸貿易、おみそれしました。

おまけ: 正門付近からの景色になります。
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逆光で写真、難しかったです。<(_ _)>
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by b_neige | 2016-03-05 19:45 | 鎌倉ガイド協会史跡めぐり | Comments(0)

フランス語は趣味です。フランス人に日本語を教えていましたが’17.6月より中断中(教師歴14年)。 鎌倉歴はある方に言わせると初心者だそうで...。(汗)


by b_neige(しらゆき)