訪問ガイド研修-葉山文化財研究会「葉山堀内地区の文化財巡り」(2017.01.26)
2017年 01月 27日
26日(木)は、葉山文化財研究会主催による「葉山堀内地区の文化財巡り」でした。
確か3年ほど前、同じ葉山文化財研究会主催で、「大山詣での道」を歩いたっけと思い出し、なんだか懐かしくなって参加してみました。
cf : 葉山文化財研究会-葉山・大山詣での道3(2013.11.27)
cf : 葉山文化財研究会-葉山・大山詣での道3(2013.11.27 part2)
cf : 葉山文化財研究会-葉山・大山詣での道3(2013.11.27 part3)
集合場所は鐙摺バス停とありましたが、鎌倉ガイド協会として合計××名で参加することになった今回は、逗子駅集合。(海岸回り一色行のバス)
そして、4班に分かれて、鐙摺(あぶずる)の小浜海岸から研修スタートです。
ただ、今回のコースを振り返ると、前回(前回は一日コースでしたが、今回は半日)の、
(上のレポートpart2からpart1までの)コースと全く同様。つまり、個人的には、あの時のおさらいとなったわけです。(前回スタートの森戸神社が今回のゴール)
それでは、前置きはともかく、ご紹介しますね。(前のレポートとほんと同じ絵になるかと)<(_ _)>
まずは日影茶屋です。(峠の茶屋→旅籠→料理旅館→日本料理屋&和菓子舗)
大正5年11月に起こった大杉栄(1885-1923 明治・大正期における日本の代表的なアナキスト ファーブル昆虫記の翻訳で知られる)の「日影茶屋事件」(=四角関係のもつれ!?)で有名。
ウィキペディアからの大杉栄の写真、貼っておきますね。
この建物の右側にある蔵。
こちらの蔵、石造り。房州石と言って、鋸山で切り出されたものだそうです。今でも現役。内部はカウンター式のバー風になっているとか?
この後は対面にある旗立山(町指定文化財)に上りました。
①治承4年(1180)、源頼朝が石橋山で旗揚げした時、これに加勢した三浦義澄がこの地で旗を立てて気勢を上げたことから旗立山という。
②治承元年(1177)、三浦義澄から「父三浦大介義明よりこの山頂に城を築くよう云われている」と聞いた頼朝が、ここを通ってみた際、馬の鐙(あぶみ)が地に摺れたことから
「鐙摺(あぶする)山」ともいわれた。
③永正9年(1512)、三浦同寸義同が北条早雲に攻められて、退却する途中、ここに登り、敵情を視察したことから軍見(いくさみ)山ともいわれる。
頂上にある伊東祐親公の供養塔です。こちらが以前の写真。
伊東祐親公は北条時政公と共に、伊豆・蛭ヶ小島に配流された頼朝公の監視役でした。娘・八重姫と頼朝の悲恋でお馴染みだし、曽我兄弟の仇討ちのエピソードにも登場。ガイドさんのご説明にも力が入りました。
cf: 頼朝との悲恋哀し、八重姫を偲んで-真珠院(2016.09.25)
そうそう、頼朝と愛妾・亀の前の逸話も伺ったっけ。妻・北条政子に知られるところとなって、頼朝の怒りを買った牧野三郎宗親(北条時政の後妻・牧の方の父)が髻を切られて武士の面目をなくし、それ故、時政が怒って伊豆・韮山へ引揚げる騒ぎとなったこと云々。
頂上からの富士山。
旗立山を下り、小径を入って海宝寺へ。
*日影茶屋さんには丸二最中という家紋入りの御菓子があります。
それと、珍しいとされる奪衣婆の石像もどうぞ。
ご神体は「須佐之男命」。お祀りされているのは、肥え柄杓で、(それで流れ着いたご神体をすくい上げたとか)今はその柄杓のみ安置されていると、伺いました。
水引虹梁の上の妻飾りは浪うさぎ。
さて葉山港に到着。
この碑の前にある慶應義塾大学の施設。(昔は相福寺脇に在ったのがこちらに移動)