戸塚区柏尾町 護良親王の首洗井戸(2017.02.20)

さて、鎌倉ハムの斉藤家倉庫からほど近い路地の入口にこんな碑がありました。
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碑の裏を見ました。
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護良親王の首洗井戸とあるでしょう。それでは、この小径を辿ることにします。

少し歩いた右側に、神宮拝領の檜という碑がありました。
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伊勢神宮式年遷宮の折、伊勢神社から賜わった檜だそうです。

そこからまもなく見えてきたのが護良親王の首洗井戸。
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ところで、鎌倉で護良親王といえば、鎌倉宮ですよね。
護良親王は足利尊氏との勢力争いに敗れ、捕えられて、東光寺(廃寺・現鎌倉宮)に幽閉されてしまいます。(鎌倉宮の本殿裏には、親王が幽閉されていたとされる土牢が残っています)
翌1335年(建武2)、北条高時の子・時行による中先代の乱の際に、足利直義が家臣の淵辺義博に命じて、大塔宮護良親王を斬首。
鎌倉宮の境内には、恐ろしくなった淵辺義博が御首を投げ捨てた(置いた?)という御構廟(御首塚)が残っています。
その後、理智光寺(廃寺)の僧侶が御首を拾い、山上に埋葬したことになっているのですけど…。
護良親王の立派なお墓は宮内庁管轄で理智光寺址にあります。(大町・妙法寺の山上にもありますけどね)
どうしてまた、戸塚区に???

横浜市戸塚区HPのタイムトンネル第2回(平成9年12月号掲載)にはこうあります。

タイトル:動乱の悲劇を伝える首洗い井戸(柏尾町)
前略 
親王の首を奪い取った側近は、山の道なき道を伝い、皇子救出のため柏尾で待つ仲間のもとへ逃れる途中、この井戸で首を洗い清めたと伝えられています。
この付近の字名は「よつぐひ」といい、側近が鎌倉から山を四つ越えて逃走したルート「よつごえ」からきたという説と、親王の首を清める際、井戸に四本の杭を打ち祭壇としたためという説があります。
動乱の世でなければ、異郷の地で非業の死を遂げることもなかったであろう親王。その無念の霊は、近くの王子神社に祭られています。


側近ですって。護良親王には数多くの側室もいたということですから、側室のお一人かもしれませんね。雛鶴姫の名前も挙がるようです。また、こちらの南北朝時代の有力者・斉藤氏(鎌倉ハムの創業者の祖)を頼って逃れてきたとの説もあるようです。

井戸の中をのぞいてみましたが、枯れ果てたのか、すっかり埋め尽くされていました。

ここで写真を撮っていたら、ご近所の方が出てらして、週末にはちょくちょく史跡巡りのグループが来ているとのこと。そうなんですね。私は、これまでちっとも知らなくて…。
その方が教えてくれました。
昨今、井戸の傍に蝋梅を植えたと。これです。
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10年も経ったら大きな木になって、蝋梅が美しいでしょうね。護良親王の供養になること間違いなし!
ちなみに、神奈川県神社庁の王子神社の頁には、「井戸の傍の大杉は伐採しても不思議に新芽を生じたが、昭和35年頃焼損した」とありました。

この井戸の先には、親王の御首をお祀りしたという四つ杭跡の碑がありました。(山を四つ越えてきたのか、四本の杭からきているのか、2説あり)
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碑の脇に立つ梅の木が盛りだったので、あえて遠望です。
碑の裏面をご参考までに。
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それでは、王子神社に向かいます。

 
by b_neige | 2017-02-21 17:31 | 横浜歩き | Comments(0)
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