人気ブログランキング | 話題のタグを見る

勝長寿院跡で(2017.08.03)

サニブラウンが不発に終わって、ボルトは連覇ならず。ついでに錦織君も決勝目前で敗退。
ボルトは、今回、予選でも準決でも今いち、スタート、だめでしたよね。
ラストランで勝てるなんて、虫がよすぎかも!? 5歳上のガトリン、立派でした。☆

でも、最後まで全力で走り、ゴール前では必死で上体を前に突き出したボルトの姿に、胸が熱くなったことは確かです。⭐

さて、勝長寿院跡からですね。
勝長寿院跡で(2017.08.03)_e0245404_13354921.jpg
cf : 雪ノ下 勝長寿院跡へ(2012.08.01 part2)
レポートは一つありました。その後も訪れたことありますが、でも久しぶり。

鶴岡八幡宮(寺)建立の後、頼朝公は、父・左馬頭義朝公の菩提を弔う為に、文治元年(1185)、大御堂と呼ばれる勝長寿院を造立しました。
*横浜市泉区境川中流域の南北10km、東西3kmの範囲には、サバ神社(左馬・鯖・佐婆・左婆・佐波)が12社あります。御祭神は源義朝公(9社)、源満仲公(3社)。境川流域には、疫病=はやり病にかかると「七サバ参り」をすると治るという風習があったそうです。

義朝公と鎌田正清公の五輪塔。
勝長寿院跡で(2017.08.03)_e0245404_13365939.jpg
右に見えている小さな碑は、源義朝主従供養塔再建委員会によるもの(昭和59年)。
当時から遡ること、十数年前まで、流れ(小さなせせらぎが脇を流れています)の上手、雪ノ下4丁目13?番地15号の地に、源義朝とその郎等鎌田政家の首塚といわれる五輪の供養塔が二基残っていたそうです。ところが、土地の所有者が変わり、供養塔は消失してしまったという経緯があり、それを残念に思った谷戸の住民が関係筋と協議し、浄財と土地の所有者のご厚意のもと、供養塔を再建と記されています。

義朝公は入浴中、襲撃されたんですよね。最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとか。
終焉の地・野間大坊(のまだいぼう=鶴林山無量寿院大御堂寺:愛知県知多郡美浜町野間)の境内にあるお墓には、この故事にちなんで多数の木刀が供えられているそうです。

こちらには、何も無し。
碑の建っている場所ですが、というわけで、勝長寿院があった場所かどうか、厳密には定かじゃありませんが、まっ、この辺りだったのだろうということ。谷戸の中程の場所です。
どんなお寺だったのでしょうね。つくづく残っていて欲しかったお寺になります。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by b_neige | 2017-08-06 11:22 | 鎌倉歩き | Comments(0)

フランス語は趣味です。フランス人に日本語を教えていましたが’17.6月より中断中(教師歴14年)。 鎌倉歴はある方に言わせると初心者だそうで...。(汗)


by b_neige(しらゆき)