勝長寿院跡で(2017.08.03)
2017年 08月 06日
でも、最後まで全力で走り、ゴール前では必死で上体を前に突き出したボルトの姿に、胸が熱くなったことは確かです。⭐
レポートは一つありました。その後も訪れたことありますが、でも久しぶり。
鶴岡八幡宮(寺)建立の後、頼朝公は、父・左馬頭義朝公の菩提を弔う為に、文治元年(1185)、大御堂と呼ばれる勝長寿院を造立しました。
義朝公と鎌田正清公の五輪塔。
当時から遡ること、十数年前まで、流れ(小さなせせらぎが脇を流れています)の上手、雪ノ下4丁目13?番地15号の地に、源義朝とその郎等鎌田政家の首塚といわれる五輪の供養塔が二基残っていたそうです。ところが、土地の所有者が変わり、供養塔は消失してしまったという経緯があり、それを残念に思った谷戸の住民が関係筋と協議し、浄財と土地の所有者のご厚意のもと、供養塔を再建と記されています。
義朝公は入浴中、襲撃されたんですよね。最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとか。
終焉の地・野間大坊(のまだいぼう=鶴林山無量寿院大御堂寺:愛知県知多郡美浜町野間)の境内にあるお墓には、この故事にちなんで多数の木刀が供えられているそうです。
こちらには、何も無し。
碑の建っている場所ですが、というわけで、勝長寿院があった場所かどうか、厳密には定かじゃありませんが、まっ、この辺りだったのだろうということ。谷戸の中程の場所です。
どんなお寺だったのでしょうね。つくづく残っていて欲しかったお寺になります。