源頼朝の同母弟:源希義公(2017.09.04)
2017年 09月 04日
さて、源希義公って、どなたかご存知ですか?
希義は、源氏の嫡流・源義朝の子で、鎌倉幕府を開いた頼朝の同母弟になります。
(母は由良御前。熱田大宮司の三女)
平治の乱で父義朝が平清盛に敗れた後、沼津で捕えられ、兄頼朝が伊豆に配流になった日と同日の永暦元年(1160)3月11日土佐国介良荘(=高知市介良)に流罪に。
これより20年、希義は土佐冠者と号し、そのまま介良の地にとどまるのですが、文献がないので、残念ながら足取りはつかめません。
でも、20年後の治承4年(1180)8月、頼朝が平家打倒の旗上げをし、挙兵した際、希義も頼朝に味方して挙兵する疑いがあるということで、希義を討つように、平家方から追討令が出されるんです。(当時、土佐では平家方優位の情勢でした)
平重盛の家人、蓮池家綱・平田俊遠の動向を察知した希義は、夜須(香南市夜須町)の夜須行宗(源氏方)を頼り、介良を出るのですが、行宗と合流する前に、年越山(JR後免駅北側の山麓)の辺りで両人によって討ち取られてしまいます。一族を率いて希義の救出に向かっていた行宗は、野々宮(香南市野市町)で希義敗死の知らせを聞いて、急遽夜須へ引返し、仏ヶ崎(手結)から船で紀伊へと渡ったそうです。
希義の遺骸は平家方を恐れて葬られることなく打捨てられていましたが、希義の師であった介良荘の住僧琳猷(りんゆう)に手厚く葬られました。琳猷は文治元年(1185)、伊豆国走湯山権現(=伊豆山神社)の住僧良覺の仲介で頼朝に面会して、ことの次第を報告しています。
頼朝は琳猷に関東で一寺の別当職を与えようとしましたが、琳猷は介良荘に戻って希義の菩提を弔いたいと、これを辞退。そこで頼朝は琳猷の住所介良荘恒光名、津崎の在家の万雑公事停止の特権を与えて、追善のため希義の墳墓の地に「一箇梵宇」を建立するとともに、供料米68石を与え、不足の場合には庄内の年貢米をあてることを介良荘の地頭兼預所源内民部太夫行景に命じました。この「一箇梵宇」が西養寺で、2年後に建立しました。
希義の法名西養寺殿円照大禅定門が寺名の由来です。
同母兄である頼朝は希義の死を深く悲しんだんですね。
西養寺は今は廃寺となっていますが、源希義の墓と伝わる無縫塔が残っているそうです。
続きます