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国府津 曽我の郷でー崇泉寺跡(2018.02.12)

再び、JR国府津駅から御殿場線で一つ目の駅、「下曽我」発のレポートです。
「崇泉寺(そうせんじ)跡」の碑になります。
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この石碑も意外と見つけにくかったです。例によって、最後は地元の方に伺うハメに。(^^ゞ

「崇泉寺」は曽我兄弟の養父、曽我太郎祐信の菩提寺になります。
曽我氏が滅びたときに、一緒に焼失したお寺=廃寺になったお寺。盤谷山法輪寺の末寺だったので、お位牌は法輪寺に残っているそうですが…。

場所はキウイ畑の奥、山裾です。
ここから眺める景色が素敵でした。どうぞご覧になって下さい。
国府津 曽我の郷でー崇泉寺跡(2018.02.12)_e0245404_20251320.jpg
鎌倉時代初頭ですからね、どんなのどかな景色が広がっていたのやら。

曽我太郎祐信は曽我兄弟の連座責任で処刑を覚悟していたのですが、お咎めは無し。頼朝公からは、曽我荘の年貢を免除され、その分兄弟の菩提を弔うようにとの沙汰だったんです。
本当は頼朝公は生き残った兄弟の弟、五郎時致を許したかったんだと思います。でも、寵臣・工藤祐経の子供で、頼朝公自らが烏帽子親になった「犬房丸」が泣いて悲しんだので、頼朝公としては致し方なく、五郎時致を処罰したのだと。五郎時致も犬房丸の姿に17年前の己を見たのでしょう。
仇討ちは美談かもしれないけれど、悲しみの連鎖ですね。

個人的に、一番憐れなのが、曽我兄弟の兄、十郎祐成の愛妾、虎御前と思います。兄弟が亡くなった時、19歳だったそうです。兄弟の100日法要の時、出家して、兄弟の仇討ち時の足取りを訪ね、一周忌の法要の後は、下野国や武蔵国の諸寺をまわっています。信州善光寺にも兄弟の遺骨を納めたとか。64歳で大往生するまで、曽我兄弟の菩提を弔った哀しいご一生でした。
国府津 曽我の郷でー崇泉寺跡(2018.02.12)_e0245404_20265198.jpg
十郎祐成の千鳥の文様の衣を手にして涙する虎御前(曽我物語から)
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by b_neige | 2018-02-13 20:36 | かながわ散策 | Comments(0)

フランス語は趣味です。フランス人に日本語を教えていましたが’17.6月より中断中(教師歴14年)。 鎌倉歴はある方に言わせると初心者だそうで...。(汗)


by b_neige(しらゆき)