秦野 源実朝公御首塚へ(2018.09.10)
2018年 09月 12日
その途中御師(おし)の里を歩きます。
水車小屋などもあり、
紅葉の頃には2週間ほどのライトアップイベントも開催されているようです。
高台の下に広がるコスモス畑。
いよいよ実朝公の御首(みしるし)塚辺り。収穫が迫った、金色に輝く稲田の真ん中、田原ふるさと公園とありました。
かかし祭りがつい先週末に行われたばかりのよう。(画像左側に蕎麦処があるのですが、この日は定休日でした)
実朝公の五輪塔です。
鎌倉幕府3代将軍源実朝は、建保7(1219)年1月27日に鶴岡八幡宮への参拝(右大臣拝賀式)が終わり、階段を下りている最中に潜んでいた甥の公暁に暗殺されます。公暁は実朝の御首を持ち三浦義村を頼って逃走するのですが、三浦義村の家来(=長尾定景)によって殺されてしまい、以来、実朝の首は行方不明となって、実朝は首のないまま勝長寿院に葬られました。
その失われた首を三浦の武将武常晴が探し出し葬ったのが、こちら、東田原の御首塚と伝わります。
武常晴は三浦氏が公暁を討ち取るために差し向けた家臣の中の一人で、公暁との戦いの中、偶然に実朝の御首を手に入れます。その後、何らかの理由により首を主人である三浦氏のところへ持ち帰らず、当時三浦氏と仲の悪かった波多野氏を頼り埋葬したと伝わります。
のちに、波多野忠綱が実朝の厚い帰依を受けていた退耕行勇(実朝建立・大慈寺の開山)を招き、御首塚の近くに金剛寺を建て供養しました。
*当初、首塚にあったと伝わる五輪木塔は、現在、鎌倉国宝館に収蔵されています。(常設展示)
この御首塚の廻りの散策路には、金槐和歌集を編んだ実朝公にちなんで歌碑が並んでいました。