鎌倉街道上の道の道標(2019.06.16)
2019年 06月 21日
cf : ウィトリッヒの森と鬼鹿毛伝説(2019.05.19)
鎌倉街道上の道に出るのですが、その上の道を鎌倉方面に向かうと、まず、龍長院という曹洞宗のお寺があります。
*境内には延命地蔵を祀る地蔵堂があり、お地蔵様の向かって右には、この辺りを所領としていた俣野五郎景久の護身石像と伝わる石像が安置されています。
そして、そのすぐ先には東俣野町の鎮守八坂神社。(明治以前は龍長院が別当寺)
勿論八坂神社の鳥居で、往時は鳥居の辺りまでが境内だったのでしょう。
その鳥居の傍に石仏が何基か並んでいるので、ご紹介しますね。
青面金剛塔 延宝八年(1685)
庚申塔 延宝三年(1680)
庚申塔 寛政七年(1795)
石塔
このうち、右から4つ目にご注目下さい。鎌倉道の道標を兼ねているんです。
右側には かまくら道 って読めますでしょう?
この横に案内板があって、鎌倉街道西の道と記されていますけど、新田軍が鎌倉攻略に進撃した道と伝わります=上の道=歴史ある古道
新田軍はこの先を進んで稲村ガ崎、極楽寺坂、仮粧坂、巨福呂坂から鎌倉市中に突入、北条高時ら一族門葉870余人が東勝寺で自刃して鎌倉幕府は滅亡します。
源頼朝が鎌倉入りした1180年から数えて153年目の5月22日でした。
ところで、八わうじ道とは???って思われませんか?
江戸時代、神奈川県を通る幹線道路は五街道の一つである東海道でしたけど、この東海道からの脇街道があったそうでして、
主なものが、
1.中原街道
2.大山道=雨乞いの「石尊大権現」を祀る大山へお詣りに行く道
3.八王子道=藤沢からの八王子道は小田原北条氏の時代に八王子城(=小田原城の支城・枝城)とを結ぶ重要な道だったそうです。
4.鎌倉道
5.金沢道(保土ケ谷と金沢を結ぶ道で、江戸の文人たちが訪れました)
八王子城は秀吉の小田原攻めの折、落城しています。八王子のその後の歴史を勉強してみようと思った次第でして...。
続きます