「鎌倉殿の13人」-第36回(2022.09.18)
2022年 09月 19日
畠山重忠・重保父子が討たれました。
二俣川の決戦の時の重忠の鎧に注目してしまいました。
だって、赤絲威鎧だったので。
以前のレポートにも記しましたが、今年御岳山の武蔵御嶽神社に重忠の大鎧(国宝)を見に行ったのに、週末のみの開館で閉まっていて拝見できませんでした。鎌倉の歴史文化交流館にはレプリカが展示されています。きれいに照明があてられていて大変美しいです。でも、本物(実物)を是非一度拝見したいと思ったんです。(またいつかきっと)
こちら、ネットで拾った画像です。(ドラマの鎧、かなり近づけてますね!)
武蔵御嶽神社のパンフレットからのスキャンをご参考までに。
今なお色鮮やかな発色をみせているのが平安時代末期の古い茜糸で、色が褪せて見えるのが明治36年(1903)に修復された新しい赤糸。平安時代の染色技術が、当時の最先端技術だった明治時代の染色技術よりも優れていたことが分かります。」
いかがですか?かつては華やかだったけれど、赤色が褪せて退色していることがわかりますね。
さて、新編武蔵風土記稿によれば、重忠は建久2年(1191)に奥州征伐の恩賞として、頼朝から青梅地方を領地として賜っています。御岳山に城を築いて住んでいたとも。重忠の製鉄(鍛冶)集団が奥多摩の修験者ともつながっていたことが考えられますね。畠山重忠は大力と云われたように重忠自身の度量も大きいものだったと思いますが、その背後を固めていた修験者たちの存在も侮れないと考えます。強大な力が北条氏にとって脅威だったのでしょう。
重忠は武蔵国の留守所惣検校職、武蔵七党の上に立つ立場でした。武蔵七党は重忠の直属の家臣というわけではなく、夫々一つの党としてまとまっているのですが、すわ一大事と云うときには、重忠の呼びかけに応じて行動を共にする、つまりは重忠の配下にあったのだと。(御恩と奉公よりは緩やかな間柄だったと思うけど)
修験者たちは有事の際は武士集団となって重忠をサポート。つまり信仰と物質的な力の両面から大きな役割を担っていました。
武蔵御嶽神社には、重忠が奉納したと伝わる名匠(刀工集団・宝寿)による大太刀もあるようです。→「宝寿丸」(実際は重忠没後120年余り経過した後に作られたものであると考えられています)
畠山重忠が亡くなり、次回は時政・牧の方が伊豆に追いやられるのでしょうか。平賀朝雅も結局討たれるわけで、義時が仕切る場面が多くなります。小栗さん、いよいよ主役、ですねぇ。