足利2日目 -下野国一社八幡宮(2023.04.29)
2023年 05月 07日
下野国一社八幡宮を訪れました。渡良瀬川を渡ってから意外と距離がありました。自転車で15分くらいかな。
歴史は古いですよ。天喜4年(1056)に八幡太郎でお馴染み、源義家が前九年の役に赴く途中、戦勝を祈願し、京都の石清水八幡宮を勧請して創建したと伝わります。その後は源姓足利氏の庇護のもと、隆盛したと云われます。
源姓足利氏発祥の地の碑
碑の裏面にあった説明文
八幡太郎源義家は十一世紀後半の武将として名高い。義家は下野守、陸奥守を歴任しながら、東国を足場にして前九年・後三年の役という奥羽の二つの内乱を朝廷の命によるとはいえ、ほとんど独力で鎮定させている。まさに偉業というべきであろう。
この義家を父に中宮亮藤原有綱の女を母として生まれたのが源義国である。京都で生まれ育った義国は久安6年(1150)のある日、宮中に参内の途中、偶然にも当時右大将(のちに右大臣)藤原実能の行列に出会い、争いをおこし、狼藉をしたということで、実能の従者らによって馬からうち落とされてしまった。これに起こった義国の郎徒が実能邸に押しかけ、邸を焼き払ってしまった。この事件で義国は勅勘をこうむり、下野国足利の私領にひきこもってしまった。この私領は父の義家から伝領された土地だったのであろう。
この私領で過ごすこと数年、仁平4年(1154)年老いて死期の近いのを悟った義国は出家し荒加賀入道と号し、翌年に没した。義国の足利在留はわずかな年月であったが、これが足利氏・新田氏の成立の発端となったのである。(以上、「近代足利市史」より抄出、一部加除)
この義国が下ってきた足利私領の地が一体、どこなのか。古来、諸方面から論議されてきたが、下野国一社八幡宮付近を宛てる説があり、かなりの可能性が高いと言われている。
時は流れ、義国の子の義康は足利氏の先祖として後白河天皇方に味方して活躍をとげ源姓足利氏発展に大きく貢献した。その子義兼は鎌倉御家人として将軍源頼朝を補佐して鎌倉幕府誕生に尽力した。
そしてこの義兼の後胤に尊氏が輩出し室町幕府を築き上げ武家政治を推進したことは高く評価されなければならない。
慈に源姓足利氏の発祥地である下野国一社八幡宮の境内に記念碑を造立してこれを後世に長く伝えんとする次第である。
平成20年11月20日 下野国一社八幡宮 総代会
八幡太郎義家の子は義親と義国。義親が嫡子で為義→義朝→頼朝と繋がり、義国からは義重(嫡子‐新田氏祖)と義康(第2子・足利氏祖)に分かれます。頼朝は約150年続いた鎌倉幕府を開きましたが、足利氏の祖義康から八代目の尊氏は鎌倉時代末期、長年仕えた北条氏を裏切り、更には天皇にも反旗を翻し、その後240年に渡って続くことになる室町幕府を開いたというわけです。
拝殿をどうぞ。
拝殿には天井板絵(72枚の花鳥図)、長押には大絵馬10枚が掲げられているそうです。二十四孝図屏風も祀られているそうです。
後ろの本殿ですが、彫刻(3面)が素晴らしかったです。
東側(八幡太郎と将兵、水を得るの場面)
前九年の駅に義家は父頼義に従い参戦。折からの日照りで将兵は極端な水不足に悩まされたが義家が弓杖にて地面を突いたところ、八幡神の加護により大量の水が湧き出し、のどを潤した将兵は大いに力を得た、と云う。
北側(神功皇后、三韓征伐の場面)
西側(衣川の戦いの場面)
源頼義は敗走する安倍貞任を衣川に追い詰め、源義家は敗走する貞任に対し、「衣の館は綻びにけり」と和歌の下の句を歌いかけた。それに対し、安倍貞任は、「歳を経し糸の乱れの苦しさに」と返し、その歌心に感じるところがあり、義家は貞任めがけていた「矢」を外してそのまま引き上げたと云う。
江戸時代中期・後期の特徴が良く表されている華やかな建築物でした。
境内の一角には門田稲荷神社が佇みます。日本三大縁切稲荷だそうです。これは知らなかった。悪縁とは縁切りをしたいものです。病気・災難・厄除けに霊験あらたか。お参りしました。
さて、駅に戻ると15時半、なんと6時間も自転車で足利を北から南まで巡ったということ。(途中休憩、もちろんありでしたが)
東武伊勢崎線足利市駅から帰宅の途につきました。今回の旅、残念ながら、足利フラワーパークには寄れませんでした。もしかして藤の花がぎりぎり楽しめたかも??また次回ですね。
足利一族の史跡めぐりの旅、たとえば江川八幡宮(頼氏勧請)、平石八幡宮(智光寺跡=泰氏創建、八幡神を鎌倉より勧請)、大岩・叶権現とか廻りきれず、それは残念でしたけど、それでも十分満足出来ました!